2019年1月6日のメッセージ(音声視聴できます)

コリント人への第1の手紙第1章1節~9節

神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。 

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 

わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。 

あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。

 

「恵みと平安があるように」

 

 こうして無事に新たな年を迎えることができ、皆さんと一緒に礼拝をささげることができましたことを心から感謝しています。旧年中はお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願い致します。

 私はすっかり勘違いしていたことがありました。それは、昨年の後半くらいからでしょうか、いろんなところで平成最後、平成最後って言われるものですから、てっきり1月1日から新しい元号になると思っていたんですね。ですから12月に入って、「そろそろ新しい元号が発表されてもいいんやけどなぁ、まだかなぁ~」って、思ってたんですね。そうしたら次の年号の発表は4月だって言うじゃないですか。「え、なに?平成31年があるの?!」と、つい先日気がついた次第です。

 恥ずかしい限りですが、私たちは聖書の御言葉についても、まだまだ気づいていないことがたくさんあるかもしれませんね。ですから、今年も、この礼拝の説教を通して、よい気付きを与えていただいて歩みたいと思うのです。

 

 さて、今日は新年の最初の礼拝ということで、コリント人への第一の手紙のところを読んでいただきました。この箇所にあります3節のお言葉は、聖書時代のクリスチャンたちの挨拶の言葉でありました。「恵みと平安があなたがたにあるように」。少し説明しますと、「恵みがあるように」というのは、この時代において公用語だった“ギリシャ語”的な挨拶で、「平安があるように」というのは、ユダヤ人の“ヘブル語”的挨拶なんだそうです。ですからこの挨拶というのは、ギリシャ的な挨拶とヘブル的な挨拶が融合したものなんですね。

 この挨拶は、聖書に収められている「○○の手紙」のほとんどで使われていますが、文章だけではなくて、当時のクリスチャンたちが、「恵みと平和があるように」と、実際に挨拶として用いていたようなんです。今日は新年にあたり、この挨拶の言葉を通して、2つのことについて考えてみたいと思っています。

 

1. 平安があるように

 まず最初に、「平安があるように」ということを考えてみましょう。「平安」という言葉を聞いた時に、皆さんはどんな印象を受けるでしょうか。平安を求めるのは大切なことだと思いますし、また誰もが平安でいられることを望んでいると思うんですね。「いやぁ、私は不安でいたいんです。ちょっとくらい不安じゃないと安心できないんです…」なんて言う人がいたら、相当な変わり者ですよね。平安といいますと、「魂の平安」といったように、自分の心の静けさだとか、自分の心が落ち着いている様子を指すことが多いのではないでしょうか。

 しかしここで言われているのは、そのような心の中のことを述べているのではありません。別の翻訳で見てみますと、この言葉は「平和」と訳されています。「平和」というと、国と国、あるいは人と人との関係をあらわす言葉ですよね。国や人同士の間に争いがなく、共に安らかである状態です。まさに平和とは状態であり、「関係の問題」なんです。

 そして、聖書において関係の問題と言う時には、2つの関係が取り上げられます。まずひとつは、私と誰か、ということ。そしてもうひとつは、私と神さまとの関係。この2つがいつも取り上げられているんですね。聖書には、人間は「罪人」であると書かれています。その罪とは、もともとの言葉では「的外れ」という意味です。本来人間は、神さまと共に歩む者として創造されました。でもそれをしないで、神さまを意識せず、神さまを無視して、神さまに無関心で歩むこと、その「的外れ」な生き方こそが、罪であるといいます。神さまとの関係が崩れていることが、罪なんです。

 しかし、2節に「キリスト・イエスにあってきよめられ」とありますように、そのような罪人の私たちが、イエスさまによって罪の解決をいただくことが出来るんです。そして9節を見ますと、イエスさまを信じることによって「交わりに、はいらせていただいた」とあります。イエスさまを信じる信仰によって、神さまとの関係を回復することができるんですね。そして、そうやって神さまとの関係において平和・平安をいただいた者は、人との間にも平和・平安を抱いてゆくことができるんです。実は、この順番が大切なんですね。神さまとの関係に平安があることで、人との関係にも平安をいただくことができるんです。

 しかしどうでしょうか。私たちは実際に目に見える、人との関係にばかり目を向けて、そこを解決しようと躍起になっているのではないでしょうか。そうではなくて、まず自分と神さまの関係に目を向けていく。そこから私たちの平和、平安は始まっていくんですね。わたしたちは、自分の平和・平安のために、見るべきところをちゃんと見ているでしょうか。

 ユダヤ人のジョークに、このようなお話しがあります。ある日のことですけれども、ひとりの奥さんが病院に駆け込んできたんですね。そして言うんです。「先生、大変なんです。脇のところを押すと、どうも痛いんです。そして、胸のあたりを押しても、痛みを感じるんです。私、何か悪い病気じゃないでしょうか」。そう言われて先生も看てみるんですけれど、胸にも脇にも異常がない。ところが次の日に、またその奥さんが駆け込んできました。「先生!今度は足を押しても、腕を押しても痛いんです。痛くてしょうがありません。きっと何か悪い病気です!」その奥さんはきっと恐ろしい病気に違いないと思いこんで、半ばパニック状態です。お医者さんはその様子を見ながら、ふと思い立って、あらためて診察した後に言いました。「奥さん。原因がわかりました」。何だと思います?「奥さん、あなたは…、指を骨折しています。」なんと、触っている指が骨折していたものですから、どこを触っても痛かったんですね。

 これは笑い話ですけれども、もしかしたら私たちも同じようなことをしているかもしれませんね。今自分が平安でいられないのは、この人との関係が問題だ、あの人間関係が問題だと、別のところに目を向けていないでしょうか。しかし私たちが、まず目を向けなければならないのは、神さまとの関係なんですね。日々神さまを覚え、神さまと共に歩んでいく。指の骨折じゃないですけれども、まず神さまと自分の関係において平安を得るならば、わたしたちは、周りの人々との関係においても、平安を得て歩ませていただくことが出来るんですね。まず、神さまを仰がせていただきましょう。

 

2. 恵みがあるように

 次に、「恵みがあるように」ということで考えてみたいと思います。今日の箇所には、この「恵み」という言葉が何度か出てきているんですね。まず4節に、「与えられた神の恵み」と出てきます。次に5節では、「すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ」と、受け身の形で出てきています。そしてもう一箇所は7節で、「こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることなく」。ここには「恵みの賜物」とありますね。賜物とは、プレゼントということです。これらに共通しているのは、恵みというのは、一方的に与えられるものだということです。もっと言いますと、こちらにはその理由がないにもかかわらず、一方的に与えられる。それが「恵み」ということなんです。もし理由があれば、その努力の結果であり、当然の報いということになりますので、恵みとは言えません。

 恵みということで、耳慣れた表現がいくつかあります。例えば、「恵まれた環境に育つ」と言うと、親が有名な音楽家だったり、スポーツ選手で、その環境の中で育つとか、あるいは何不自由ない家庭で育ったとか、そういうようなことです。また、「恵まれた体格」と言いますと、生まれ持った体格が、その人が取り組んでいるスポーツに適しているということですね。そして「大自然の恵み」という言い方もありますが、そこにある豊かな自然から、いろんな収穫物の恩恵にあずかるというようなことです。これらはどれも、自分の努力とは全然別の問題なんですよね。まさに与えられた恵みです。

 ですから恵みっていうのは、自分の努力でどうこうなるものではなくて、理由なく一方的に与えられるもの。もっというと、偶然手にするとか、たまたまこうだったとか、そういうもののように聞こえてくるんですよね。

 しかし、あらためて自分の生活を振り返って考てみる時に、そういう「恵み」で生きているというよりも、結局は自分の頑張りや、自分が積み上げてきたもので毎日を過ごしている、それで勝負している、という面が大きいのではないでしょうか。勉強でも仕事でも、家庭のことでも、基本は自分のがんばりが評価され、結局自分の積み上げて来たものが頼りになる。いつ与えられるかわからない「恵み」に期待するなんてことは、それこそ、「たまたま」と「偶然」に頼って生きていくことと同じだ。もしかするとそのように思われるかもしれません。

 でも、あらためて、この4節のところにあります、「与えられた神の恵み」という言葉に注目したいんですね。ここで「恵み」と訳されている言葉。これは、もともとこの新約聖書が書かれたギリシャ語では、「カリス」という言葉です。実はこのカリスという言葉は、神さまの私たちにたいする一方的な「好意」をあらわす言葉です。これは、行動の行為ではなく、好意を寄せるの方の好意ですね。また、神さまの“動機”をあらわす言葉なんだそうです。聖書の語る神さまは、いついかなる時でも、皆さんを恵みたいと心から思っていてくださる。そして、全知全能の神さまがそう思っていてくださるならば、皆さんの日々の生活の中に、その神さまの恵みの業が必ず起こってくるということなんですよね。

 恵まれるというのは、決して偶然とか、たまたまというようなことではありません。神さまというお方がおられ、その神さまが、他でもない、あなたを愛し、あなたを恵みたい!という強い思いを明確に持っていて下さるんです。神さまの方がそう思って下さっているからこそ、私たちは折ある毎に、神さまからの恵みを受けていることを実感できるんですね。

 以前教区の春季聖会で司会をした時にお話ししたこともあるんですが、確か娘が進学した時だったでしょうか。三田の父と母が、年度替わりにいろいろ送ってくれたんですよね。で、その御礼をと思って電話しまして、「いや~、いろいろ気ぃ遣ってくれてすんませんねぇ~」って言いましたら、母が、「そんな、御礼なんていいのよ~。こっちがしてやりたいのよ~、孫に~」。って言ったんですね。思わず「いや、息子はどうでもいいんかい!」と心の中で突っ込んでしまいました。でもまぁ、私も自分の子どもがいますし、家内の姿を見ていましても、やっぱり我が子にはしてやりたい、って思うわけですよ。ですから、母がそう言ってしまう気持ちも、分かる気がします。

 私たちでさえそうなんですから、神さまはそれ以上ですよ。いつでも皆さんお一人一人を恵みたい、してやりたいんだ。そう思っておられるんです。そして実際にその恵みをそそいでくださるお方、なんですね。

 

<まとめ>

 新たな一年がスタートしました。きっと,今年もいろいろなことがある一年でしょう。苦しみの時や涙の時、悩みの時、挫折の時もあるかもしれません。でもそれでもなお、神さまは、他でもない、このわたしに、そして皆さんお一人一人に、恵みを注ぎたいと思っておられます。そして、あなたに平安・平和があるよ!と約束してくださっています。そのことを信じて歩んでまいりましょう!あらためて、この3節のご挨拶をさせていただいて終わります。

「恵みと平安とが、あなたがたにあるように」。