2019年4月14日のメッセージ(音声視聴できます)

ルカによる福音書第2332節~49

さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。

 

「苦難の僕でなければ」

 

今日は棕櫚の主日といわれる日で、2000年と少し前の今日、イエスさは「ホザナ、ホザナ!」という群衆の喜びの声で迎えられ、ロバの背に乗って、エルサレムに入城されました。しかし、そのわずか4日後、イエス様はゲッセマネの園で捕らえられ、不当な裁判を受け、むち打たれ、死刑を宣告され、翌日には自分のかかる十字架を背負わされてゴルゴダの丘まで歩き、ついにはその十字架に手足を釘で打たれて、いばらの冠をかぶせられて、十字架にかけられました。金曜日にはそのような姿にされてしまうイエス様を、この棕櫚の主日の時には、いったい誰が想像していただろうかと思わされるのです。

そして、先ほど読んでいただきましたルカによる福音書23章では、イエス様と共に十字架にかけられた二人の犯罪人が、イエス様とどのような対話をしたかが描かれています。今日はここから、「苦難の僕でなければ」という題で、二人の犯罪人をそれぞれ見てみたいと思います。

 

1. 打たれた傷でいやされる

まず第一に、「打たれた傷でいやされる」ということで考えてみたいと思います。イエス様と共に十字架につけられた犯罪人のうち、イエス様をののしった人に注目してみましょう。39節をご覧ください、彼はこのようにイエス様をののしりました。「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」。彼は、「キリスト」という言葉を使いました。当時のユダヤ人にとってキリストとは、旧約聖書に預言されていた、自分たちを救ってくれてイスラエルを再建してくれる救い主ですが、しかしこの犯罪人にとっては、とにかく今のこの十字架の苦しみからの解放、それが彼の求めでありました。それをキリストに求めているわけです。じゃあイエス様にそれができるかというと、見た感じそうは思えないんですね。人を救うどころか、自分も一緒に十字架にかかっているんですから。誰か他の人を救い出せるような力強さは、かけらも感じられないんです。

以前「パッション」という映画がありましたが、皆さんご覧になりましたでしょうか?あの映画でのイエス様は、文字通り血まみれのぼろぞうきんのようになって十字架にかかっている、もう息も絶え絶えの姿でした。でもそれは、神さまがイエス様を、私たちの罪の罰を代わりに受けるという、苦難を受ける救い主として遣わされたから、イエス様はあのように十字架の上で苦しんだんですね。でも、どうして神さまはそんな方法を選ばれたんでしょうか。創世記の最初で、「光あれ」と言われて世界をお造りになったように、「救われよ!」って言葉で言うだけではいけなかったのでしょうか?

実は、そこにもまた、私たちの罪の現実があったからなのです。このイエス様をののしった男は、マタイによる福音書によれば、強盗でありました。ただのコソ泥で死刑にはならないでしょうから、ひどい強盗だったんでしょう。奪う、殺す、何でもありで自分の好き勝手し尽くして、ついに捕まりました。まぁ自業自得、とうとう年貢の納め時なんでしょうけれども、でもこうやっていざ自分が罰を受けた時に、「しょうがないよな、自業自得だ…」って、彼は思えないんですね。そして自分のことは棚に上げて、イエス様をののしって、イエス様を傷つけている。でもこれって、人間誰しもが持っている姿じゃないでしょうか。人間って、自分が傷つくと、誰かを傷つけないと収まらないんですね。自分が傷ついて終わり、じゃ、どうしても納得できない、そう思ってしまうのが私たちではないでしょうか。まぁ、私もひとなみに家内とけんかするんですけどね、例えば自分が何か落ち度があるとするじゃないですか。デリカシーのないこと言ったとか。そうすると当然家内は怒っていろいろ言うわけですよ。じゃあ言われた私は素直に自分が悪かったと思えるかというとそうじゃない。「確かに自分は悪いけど、今の言い方で傷ついた!そうはいうけどあなたは…」って、言いたくなるし、言っちゃうこともあるんですよね。喧嘩両成敗であったとしても、自分が言われて終わりじゃなくて、自分が言って終わりにしたい。人間は、最後は誰かを傷つけることで丸く収まっていくんです。人を傷つけないと生きていけない、それが人間だと思わされます。

だからこそイエス様は、その、最終的な傷つき役になってくださったんです。私たちはいろんなことで傷つきます。人の言葉や思い通りに行かない現実。たとえ自分のせいってわかっていたとしても、誰かにあたってしまったりする。またこの強盗と同じように「あなたは救い主なのに、なんで私救ってくれないんだ!」、そうやって吐き出すように言ってやりたいのが私たちなんです。でもイエス様は、その傷つける連鎖の最後になってくださるんです。今日の交読文では、イザヤ書53章を共に朗読しました。が、新聖歌の868ページのところにこう書かれています。「しかし彼は、われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。イエス様は、私たちの傷つけあう連鎖の最後となってくださいました。傷つけて終わる、これをイエス様にもとに持っていく時に、正にこの御言葉のように、イエス様の傷によって私たちがいやされる、という出来事が、他でもない私の内に、皆さんの内におこってくるのです。

 

2. きょう、パラダイスにいる

二つ目は、もう一人の犯罪人に注目しながら、「きょう、パラダイスにいる」ということを考えてみたいと思います。彼は、イエス様について、先ほどの犯罪人とは全く反対の反応をしています。40節を見ていただきましょう。ここで彼は、こう言います。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか」。神を恐れないのか。イエス様は何も罪を犯していないのに、十字架刑にされているわけです。体の痛みだけじゃなく、あざけられ、ののしられ、精神的にもとことんボロボロにされていく。でもその中でこのイエスという人は、34節のように語るわけです。「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。この言葉で彼は、「この人は違う…」と感じさせられたんではないでしょうか。

このもう一人の人は、決して忘れてはいけないと思うんですが、先ほどの犯罪人と同様、十字架にかけられるほどの悪事を行ってきた人です。十字架というのは極刑ですから、かなりの極悪人ということですよ。でもその極悪人が。そういうイエス様の姿にふれて、神さまを恐れるということに気付かされているんですね。そして彼は、イエス様に語りかけました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。自分のことを考えたら、救ってくださいと言えるような身分じゃない。こうやって十字架にかけられて、苦しんで惨めに死んでいくのは当然だ。でもイエス様、せめて俺みたいなヤツがいたっていうことだけでも、覚えていてください…。きっとそんな思いだったのでしょう。

でもイエス様は、そのような彼に言われました。43節をお読みします。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。いつか、ではない。また思い出すだけではない。イエス様は、この犯罪人に、「きょう」、わたしと一緒に天国にいる、そうおっしゃってくださったんですね。彼は人生の最後の最後において、イエス様と出会って救われました。救われてよかったなぁ!そう思うんですが、でも彼の死に方を見ていると、少々複雑な気持ちになります。

普通ですと、十字架刑で死ぬには数日かかるといわれ、この時一緒にかかっていた強盗達も、イエス様と同じ6時間で死ぬはずがありませんでした。ですからここで救われてパラダイスを約束された犯罪人は、十字架刑の苦しみの途中で、足を折られ、ゴルゴタの丘の上に捨てられ、野ざらしにされて、そのまま生殺しの状態で死んでいったんですね。本当に悲惨な最期です。さらに十字架で死刑にされた犯罪人は、ちゃんと埋葬されないのが普通だったそうです。イエス様はちゃんと葬られてお墓に入れられましたが、それはアリマタヤのヨセフという人が、勇気をふりしぼって願い出たために、特別に許可していただいたことです。犯罪人の死体は、山犬やからすの餌となって、最後には骨だけになっていったんです。客観的にこの犯罪人の最期の姿を見るなら、正直言って、パラダイスに行ったとはとても思えません。死んでいく様子があまりにもみじめで、神の祝福を受けて死んだ人物とは思えません。でも、それでもなお、事実、彼は十字架のイエス様を信じて救われた、最初の男なのです。信じるだけでどんな人も救われるという、まさに福音の頂点が、この犯罪人の救いにあらわされているんですね。いつの日か、ではない。「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたイエス様の宣言を、私たちは大切に受けとめたいと思うのです。

そしてこのイエス様のお言葉は、私たち自身にも語られている御言葉として受けとめるべき言葉です。私たちは、救いというものをどのように考えているでしょうか。イエス様に救われたら、これまで上手くいかなかった人生が上手くいくようになった。そうやって、今、変化や出来事が起こらないと救われないように思っていないでしょうか。しかし私たちの救いは、目の前の現実で左右されることのない、間違いのない確かな救いなのです。私たちが日々歩む中においては、様々な出来事があります。目の前には、「何が救いだ!」と叫びたくなる現実の痛みがあるかも知れません。でも、それでもなお、私たちはイエス様の痛みによって救われているのです。そう信じてよい。私はイエス様の十字架によって罪ゆるされて救われている!「あなたはきょう、パラダイスにいる」、天国の希望に、今日あずかっている。イエス様の宣言をしっかり受けとめて、今週も遣わされてまいりましょう。